「らんまん」と博物学

 今年の春秋のNHK朝ドラ、「らんまん」は、在野の植物学者の牧野富太郎をモデルにしたもので、奥さん役の浜辺美波さんがとてもかわいらしくて魅力的であったこともあって大人気でした。昆虫少年で、自然大好き人間の私にとっては、内容もとても興味がわき、珍しくほとんど毎日見ていました。この「らんまん」の時代までは、ドラマの中でも出てきたように、植物学、動物学の主流は分類学で、だから新種発見に関する功名争いが番組にあったように盛んでした。こういう分類学主体の生物学をここでは博物学と言わせてもらいますが、世界的には西洋ではプリニウスの「博物誌」時代からの伝統があり、一方日本でもそのレベルはなかなかのもので、平安時代の堤中納言物語の「虫愛ずる姫君」から始まって、多くの知見が残されていて、特に江戸時代の本草学の諸作品は観察の正確さや作図のうまさで現代の水準に達するものもあります。しかし、西洋にリンネが出て、現代に通ずる生物分類体系を確立してからは、世界で新生物を発見し、同定し、学名を付けると言う作業は西洋の独壇場になります。特に、折から西洋諸国の世界支配が進んだ中で、新しく勃興した資本家の一部が、世界中に採集家を派遣して新種発見に貢献したことや、新世界に出て行った外交官や医者などが趣味で任地の生物相を調査したことなどが大いに効果があったと思われます。日本の場合もこれら外国人が全国を股にかけて採集をし、標本を集めるのですが、その際、日本の山野をよく知っている日本人の協力者の存在が欠かせませんでした。このような人の名は、彼らが発見してきた生物種の学名や和名になって残っています。そして、こうして西洋人が集めた標本は、本国の大博物館やロスチャイルドと言った大富豪のもとに集められ、そこで整理され、国際規約に則って権威ある雑誌などに発表されて名前が付いていくわけであります。「らんまん」の中でも、ロシアの何とか博士の所に標本を送って同定をしてもらうといった下りが随所にありましたが、それはこの辺の事情を物語っています。その中で、西洋の博物学を学んで帰って来た、「田辺教授」のような先駆者が日本でも西洋に負けないような博物学の拠点を作ろうと頑張っていた時代が「らんまん」の時代背景です。その中で、その拠点として形成されつつあった大学の博物学教室に拠らないで、研究を進めたのが、牧野富太郎であり南方熊楠であったのです。ドラマでも主人公は大学から度々迫害されます。そこまで行かなくてもアカデミアの人からは不当に軽んじられます。実は博物学の発展の中で、大学の学者対在野の研究者(アマチュアと呼びます)の競争ないし対立は現代でも続いています。ところがここで、学問の世界、アカデミズムの世界で大きな潮流の変化が起こります。ドラマでも出てきたように生物学の主流が分類学からどんどん離れて、衛生学や、目に見えない生物世界の様々な様相の究明や、生態学、果ては分子生物学、生命化学の世界にどんどん行ってしまうわけです。「もう分類学は古いんだよ。」という教授の言葉がそれを物語っています。そのため、大学で分類を中心とする博物学を研究する部門はあまり発展せず、生物の分類や、分布、生活サイクルの究明、生態観察などはアマチュアが主として担うようになってきました。私のような自然大好きの昆虫少年、植物少年、化石少年、バードウォチャー(少年としたのは俗称で、本当は少年少女の意味です。)といった人が全国に沢山いて、採集したり、収集したり、観察したりして博物学の発展に貢献しました。そういう大勢の愛好者の活動を心を込めて指導する人が大学にも、博物館にも、それから在野にも現れて、その人達の指導の下、大勢のアマチュアが活躍したわけです。蝶の世界で言うと、九州大学の白水隆教授、横浜正金銀行の幹部であった磐瀬太郎氏、それから病身ながら磐瀬さんと同じように全国のアマチュアの支えになった林慶氏などが戦後の蝶研究の推進役でした。今は、もちろんこのような方は亡くなり、彼らに指導を受けた次の藤岡知夫氏や五十嵐邁氏のような巨星達もだんだんと亡くなり、今や我々の世代がむしろ若手として蝶の世界を楽しんでいるのです。私とほぼ同世代の人が大勢学会誌などに報告文を載せていますが、そのレベルの高さたるや大変なものがあります。先ほども少し言いましたが、天を仰ぐような高レベルの人の中で争いが起こったりします。アマチュア同士のこともありますが、大学の学者とアマチュアの大家の争いも「らんまん」の時代以来続いています。しかし、我々も年を取っていきます。段々と時代を降るほどに子供が昆虫少年になる環境がなくなっていきました。もちろん超優秀な若手も少しいますが、アマチュアの昆虫愛好家は人口からすれば絶滅危惧種と言ってもいいかもしれません。
 しかし、彼らが集めた標本は残ります。それが次の時代の、分類学はもちろんですが、そのほかの様々な科学研究の材料として残ります。その受け皿が博物館なのであります。「らんまん」で主人公が関東大震災の時に収集した植物標本を守ろうと必死になる姿が描かれています。標本、資料を守る、これがあらゆる各方面の科学の基礎となる考え方です。したがって、博物館は単なるエンターテインメントの劇場ではありません。もちろん一方では、人々に自然のいろいろな様相を伝える教育機関でもありまして、そのために、センスの良い展示が求められます。しかし、博物館の一番の価値は一般の参観者が普段立ち入らないバックヤードにあるのです。大英博物館や他の欧米の博物館は皆このようなバックヤードとしての広大な標本貯蔵室を持っています。国立科学博物館も東大や京大の博物館もそうです。生物の分類を研究している人はこういう所で、探す種の新種記載をしたときの模式標本を探して、それと問題になっている個体との比較をします。現代の地域の生物環境を調べている人はその地域の博物館に行って、昔の標本を検し、その地域にどういう環境変化があったかを認識します。私自身はそれほどの研究はしてはいませんが、長年の昆虫少年生活で、博物学や博物館や、そしてそれらを含む地域の文化とはそういうものだと言う知識があります。
 16年前、和歌山県知事になっていろいろな機関や施設を視察したとき、海南市にある県立自然博物館にも訪れました。展示を見て、館員の皆さんが県民の教育のためにいかに努力をしているかをよく認識しました。ところが、「それではバックヤードを見せてよ。」と言って案内された展示室の後ろの空間を見てびっくり仰天でした。博物館というものは、普通は展示のためのスペースの何倍かの標本資料室があるのですが、和歌山県立自然博物館には海の生物を除きほとんどありません。立派なゾウムシの専門家である学芸員の昆虫の標本収蔵スペースは、私の自宅の標本収蔵スペースの何分の1しかありませんでした。おまけにその学芸員は水生生物と植物を除くすべての動物を担当していることも分かりました。要するに、ここは大阪の海遊館や八景島シーパラダイスのような見物用の水族館に、無理矢理水生動物の立派な学芸員と他の動物、植物部門をくっつけたものだったわけです。これはいかん、このままでは世界中から笑われると、早速近くの倉庫を借り切ってここに24時間空調を付けて、取りあえず臨時の標本収蔵室を作り、少し時間をかけて各分野の専門分野に学芸員が分散配置できるようにし、そして、最後に博物館の名にふさわしいような施設に立て替えをする方針を立てました。博物館は、ディズニーランドのようなエンターテインメント施設でも、見世物小屋でも、ただの啓蒙教育施設でもありません。すべての自然科学の基礎になるような資料や標本を備える資料館でもあるのです。
博物館の、標本収集以外の、もう一つの要素は学芸員の質の高さです。それも大学教授として高度の勉学に励むのとは違った資質が要求されるものです。もちろん本人が研究で業績を上げると言うことも大事かもしれませんが、博物館の学芸員には、「らんまん」の教授の言葉のように、大学などの第一線の研究分野からすると古いかもしれない博物学の基礎をこつこつと守っていく気概と才能が必要とされます。標本をちゃんと保管整理し、必要な時に立派な展示をし、子供達をはじめ同好の士と交わって必要な指導もするという意気込みと能力がないと、博物館では通用しません。「らんまん」の主人公のように、何よりもフィールドに出て自然の中で、採集や観察をすることが大好きであることが求められます。そうでない人は少なくとも博物館の学芸員に向きません。そして、こういう学芸員を沢山備えているところが立派な博物館であって、それがその地域の文化力の高さだと認識され、そうでない地域は少なくとも文化の世界では軽蔑されます。
 私は昆虫少年ですから、こういうことはよく分かります。しかし、そのほかの特に自然が大好きというわけでもない人々も、「らんまん」を見て心が動かされたのは、皆心の中でこのようなことが分かっているから、あのように多くの人の共感を呼んだのではないかと私は思います。すべての人はもう一度なぜ「らんまん」が心に響いたのか考えてみるべきでしょう。