マスコミと同調圧力

 11月12日の産経新聞の日曜コラムに、弁護士の北村晴男さんがジャニー氏の「共犯者」と言うタイトルで寄稿をしておられました。テレビの「行列のできる相談所」で有名なあの北村さんです。北村さんは、旧ジャニーズ事務所の故ジャニー喜多川社長がタレント志望の少年達に性的虐待をしていたことを、平成15年に東京高裁が認める判決を出していたにもかかわらず、テレビ局をはじめマスコミがほとんどこれを取り上げなかったので、結果として、その後のジャニー氏による性的虐待行為を容認する形となった。したがって、マスコミはジャニー氏の最大の共犯者だとしておられます。ジャニーズ事務所は多くの人気タレントを抱えているので、テレビ局は、ジャニー氏の逆鱗に触れ、人気タレントを出演させないと言うことになったら大変なので、この蛮行に口をつぐんだと言うわけです。北村さんに言わせると、「自分たちに都合の悪いことには触れない。まさに、この姿勢こそがジャニー氏をのさばらしたのである。」と言うことになります。その通りだと思います。しかし、考えてみると、北村さんもテレビ局の番組に登場することで人気を博しているのだから、テレビ局に干されたらどうしようなどとお考えになっても不思議ではないのに、このようにテレビ局を批判する正論を述べるのはえらい、勇気が要ることだと心から敬服いたします。

 私がここでもう一つ申し上げたいことは、NHKも含めてすべてのテレビ局が、そして新聞も含めてすべてのマスコミが、平成16年当時、この問題を全くか、ほんのわずかしか報じなかったことであります。マスコミの方々は、世の批判勢力であることを標榜しているわけですから、一人ぐらい、そして一機関ぐらい、へそ曲がりな者がいて、この問題を世に問うても良かったのではないかと、私は思うのですが、そうではありませんでした。そこには、前述のように、経済的に損をすると言う恐れの他に、他紙、他局もそうなのだから自分の所だけ突出するのもいかがなものかと言う心理がなかったのだろうかと思うのであります。
 どうも日本のマスコミを流れる基調は大勢順応、同調圧力が強く働いているような気がします。日本人は、もとよりこの同調圧力が強い国民だと私は思いますが、批判精神を人生の目的に生きていると言っておられるマスコミが安々と同調圧力に屈してしまってはいけないのではないでしょうか。むしろ、日本国民が同調圧力に飲み込まれるのは、どのマスコミも同じことを報じることによるのではないかとすら思います。戦前の軍国主義賛美や、一転して戦後の平和、反軍国主義一辺倒の論調もそうだし、他にもいっぱいこのマスコミによる同調報道を目にします。

 一例を挙げるとコロナです。私は和歌山県知事としてコロナ対策の現場の責任者でしたが、コロナの初期にマスコミが一斉に批判したのが、我が国におけるPCR検査体制の弱さでした。欧米や韓国ですら、片っ端からPCR検査を実施しているのに、日本はそのキャパシティーが小さい上に、政府がPCR検査を限定的に運用しろと各自治体に指示をしているのはけしからんと言うわけです。確かに、過去の強烈な感染症の洗礼を免れた日本はPCR検査のキャパが小さく、体制が整っていませんでした。そこで政府は闇雲に検査をするのではなく、戦略的に限定的に検査を運用するように指令を出し、その一方で検査能力の拡大に邁進していました。その意味では、基本的な考え方において、日本政府は間違ってはいなかったし、キャパが現実に少ししかないと言うことは現実の問題としては言っても詮無いことでありました。もちろん、限定的に検査をすべき対象を、いつまでも最近の外国渡航歴のある人に限れとかなり長く言い続けたことはいただけませんでしたが。
 その中で、和歌山県では、済生会有田病院で本邦初のクラスターが起こり、和歌山県が総力を挙げてこれに取り組み、感染を押さえ込んだことは大いに話題になりました。その中で、私はこの病院関係者全員、470名あまりの人のPCR検査をかなり強引に命じて実行しました。過去何度も言っているように、あの命令を発したときは、既に感染者の特定と隔離が完成し、周辺からも新たな感染の恐れもないことを確認していましたので、医学的、正確には感染症対策上は必要のないことは分かっていました。しかし、当時はコロナは感染初期で、とてつもない恐ろしい病気だという認識が国民の間に広がっていましたので、済生会有田病院を機能回復させるには、この病院がどこから見ても清浄だと人々に分からせる必要があると考え、その手段としてPCR検査を使ったのでした。もちろんその目論見は完全にうまくいって、済生会有田病院は早期に再び住民に信頼される病院に復帰したのですが、PCRを政府がどんどんしないのはけしからんと言う論調で同調しているマスコミでは、政府と違って、PCR検査をやりまくった和歌山県知事はえらいと言うことになったのです。そういうわけで、私は、大変珍しいことに、ほんの一時マスコミの寵児になり、PCR検査を沢山行なうのを和歌山方式だと名付けて大いに褒めてくれるようになりました。当然テレビ局からの出演依頼が来るようになります。それで、当時は陣頭指揮の最中で、とてもテレビ局までは行けないからと言って、遠隔方式で、とあるテレビ番組に出演しました。質問は、大略、和歌山県はPCR検査をいっぱいやるので立派であるが、それに消極的な政府はけしからんと思うが、知事はどう考えるかと言うものであったと思います。テレビ局の意向は、その当時のマスコミはPCR検査の大量実施に同調していましたから、私に「そうだそうだ、政府はけしからん」と言って欲しかったのだと思いますが、そんなマスコミにゴマスリをするのが嫌いな私は、「政府も頑張っておられると思いますよ。そもそもPCR検査はその後の陽性者の隔離のための手段ですから、検査自体をいっぱいやるから良いというものではないですよ。その証拠に、PCR検査をやりまくっているヨーロッパとか韓国では患者の数は日本よりずっと多いでしょう。」と言ってしまいました。おかげで、その場が政府批判で盛り上がらなかったのは事実ですが、折角人気者にしてやろうと呼んでくれたテレビ局からその後の出演依頼は途絶えてしまいました。マスコミのPCR讃辞はその後暫く続きましたが、ある時を境にぱったり途絶え、その後の話題は西浦教授の「8割外出抑制がなされれば感染は収まるが、7割では収まらない。」と言う「8割おじさん」に代表される行動抑制論になっていきました。
 皆が量ったように同じ論調で報道する、報道する当事者も他と違うことを言う勇気がなかなか持てない、このようなマスコミでは、報道に係わる者の批判精神が泣くと言うものではないでしょうか。

 同じようなことは、戦後ずっと続いた体制批判の論調が、我々の社会に最も大きな影響力を持ったものとして指摘することが出来ると思います。また、平和を祈ることが善で、抑止力としての軍事を語ること自体が軍国主義者であって悪だという基調が、私の子供の頃からずっとマスコミを覆い尽くしていたように思います。もちろんそれに違和感を覚える多くの国民がいたことも事実だと思いますし、一部の識者が勇気を持って、同調圧力に逆らってきたことも事実です。私の尊敬する平川祐弘先生は、「私はずっと反体制ならぬ反大勢であった」と、諧謔に富んだ述懐をしておられます。また、自身もラジオを中心とするマスコミの世界に身を置いておられる飯田浩司氏は「「反権力」は正義ですか」という本を書いておられ、私は共感を持ちました。

 ここまで、私は北村弁護士の投稿にこと寄せて、マスコミに存在すると(私が)思う同調圧力とそれによる金太郎飴のような画一的な論調に批判的なことを書きつのりました。しかし、私は決して、日本のマスコミに絶望しているわけではありません。知事として、またその前の官僚として接したマスコミの方は皆さん立派で、それこそ批判精神に燃えておられました。少しとんがっていて、特定の案件に大げさな意見を言いつのる記者がたまにいて、県庁の職員からは蛇蝎のように嫌われていましたが、私はそういう人との論争も結構楽しんでいました。組織の論理、組織の圧力もあるでしょうが、言論人各人の批判精神が時として火を噴いて、マスコミの同調圧力を吹き飛ばしてくれるのではないかと期待しています。だって、北村弁護士の「マスコミはジャニー氏の「共犯者」だと言う投稿を認めたのも、そのマスコミの一員である新聞社であったのですから。