種の保存法の規制下にある蝶等の標本の取り扱い

 私はずっと子供の頃から、昆虫、特に蝶が好きで、未だに昆虫採集をして、採集した標本も自宅に置いてあります。私の世代は、子供の頃はこういう昆虫少年が沢山いて、だんだん少なくなっていく好採集地を見つけ出しては昆虫採集をして喜んでいたものです。夏休みの自由研究などにも競って採集品を出展していたものです。ところが、そういう昆虫少年も年齢が進むとだんだんと減っていきます。運動や音楽活動やその他の趣味の世界が広がり、意識の高い人は学生運動や文化活動やボランタリー活動に熱中して、虫捕りなど止めてしまいます。しかも、受験があります。その次は就職があり、結婚があり、子育てがあり、社用接待でゴルフに行かねばなどということがあると、どんどん昆虫少年は脱落していきます。おまけに、世間の風はどんどん厳しくなりました。まず、昆虫の好採集地であったところが、植林に変わり、ゴルフ場になり、畑や牧場になり、住宅や工場が建ち、湿地は埋め立てられ、里山は放棄され、昆虫の生息地はどんどん破壊されていきました。おまけに、昆虫採集は虫を捕まえることですから、平たく言えば殺生です。そう言うかわいそうなことはいけませんという心優しいお母さんが子供の昆虫採集を禁じます。かくて、昆虫少年はほとんど新しく発生せず、廃業する人が増え、さらに、高齢化により亡くなっていく人も増えますから、どんどん数が減り、今や絶滅危惧種です。それでも、私のようなちょっと変わった人がまだまだたくさんいて、いい年をして、まだ「昆虫少年」を続けているのです。
 このように、relic、遺存種となった昆虫少年ならぬ「昆虫老年」の方たちですが、実は大変貴重な資産を持っているのです。それは彼らが採集して集めた標本です。現在は生息環境の変化などによって、絶滅のおそれのあるほど希少になってしまって、「絶滅の恐れのある野生動植物の種の保存に関する法律」によって規制対象になっている種がいくつかありますが、そのような種に関しても、昆虫老年が本当の昆虫少年であった昔は、あちこちにいっぱいいたというものもあります。そうすると、昆虫少年は大いに頑張って採集して、彼らが今自宅に保管している標本箱いっぱい、その種の標本を持っているというケースがかなりあると考えられます。もちろん今は、この法律によって採集はもちろん禁止ですが、標本についてもその譲渡譲受は環境大臣の許可がなければ禁止です。今の運用からすると、大学や公的博物館のようなところに譲渡することだけが許されているのですが、その博物館なども、今は希少になった種といえども、多くの標本を受け入れるスペースがありません。そうすると、昆虫老年が亡くなるようなことがあると、せっかくの(今となっては)貴重な標本も捨てるしかなくなるのです。それは大変な損失です。希少になった種は、もうこれ以上採集して数を減らさないほうがいいと私も思うけれど(本当は採集の禁止などより生息環境を守ってやるのがずっと効果的であるという本質論はちょっと置いておいても)、種の保存のためには、昔適法に採集した個体の標本を規制しても何の効果もないのです。また、規制をすると、そういう種の標本が欲しくて密漁に走る輩が出ないとも限りませんが、そういうことを防ぐためにも昆虫老年の標本箱に死蔵されている希少種の標本を自由に市場に出してやる方がいいのは、経済学の教えるところでしょう。もっともそこはうまくやらないと、実は禁止を犯して最近採集した希少種を昔規制がかかっていなかった時代に採ったのだと言い張る脱法行為がはびこる恐れもあります。この手の脱法行為は、法律の作り手(実際は所管省庁の役人ですが)が法律に「抜け穴がある」と言われるといやだと思って最も嫌うことなので、法律によっては、本当に守るべき法益のちょっと向こうにも規制をかけてしまえということがたまにあるのです。私などは、この標本の譲渡譲受の規制などはその類だと思っていました。
 私は、昔、通産省で輸入規制を担当する貿易局輸入課長を拝命していた時期があるのですが、国際的な希少野生動植物の保護のための輸出入の制限を課すワシントン条約に基づく輸入規制も担当していました。その時起こった問題は、条約に加盟する前に国内に適法に持ち込まれていた規制種や象牙など個体の一部や標本をどうするかということでした。その時は、それらの持ち主に、そういう条約適応以前に日本に入っていたものを適当な機関に登録してもらって、その登録書と一緒に点々流通するものは適法と見做すという知恵を絞りました。こういう前例があるのだから、この種の保存法も、運用で、規制開始以前に採集した個体の標本であることを権威のある機関に証明してもらって、その証明書と一緒であればその標本は売ろうとさし上げようと自由自在と言った制度を作ったらいいのではないかと思っていました。何度か、私自身が環境省の担当者に申し上げたこともあります。それでも一向に進みません。法律を変えなければだめだと言うのです。そのうち、昆虫老年は次々と亡くなっていき、標本は失われていきました。
 これはいかんなあと思い、国会で質問をしてもらい、環境大臣に答えてもらえば、事態は進むかなと考え、当時参議院幹事長であった世耕弘成議員にご相談し、環境委員長であった青山繁晴議員(現在は環境副大臣)にもお話して、加田裕之議員から大変良い質問をしていただいて、当時の環境大臣であった浅尾慶一郎大臣から素晴らしい答弁を頂きました。今年の春のことです。
 それで進むかなと思っていたのですが、環境省の信頼も厚く、この問題で環境省と日常的に折衝しておられる東京大学総合博物館の矢後勝也博士にお聞きしたところ、環境省の当局が検討を開始してくれているが、その内容は、標本をちゃんと承継して管理してくれる人を、権威のある学会などが認めた時にのみ標本の譲渡を認めるというもので、自由自在に、例えばマーケットで売買をするようなことまで考えてはいないようだというお話をお聞きしました。そう言えば、前に環境省にお願いに行った時も現行法を改正しないとそういった自由な取引は認められないと言っていたなあと思って、もう一度、法律を隅々まで読み返してみました。そうしたら、法律の12条、13条に、希少種との指定を受けた種の「個体等」(生きた個体、一部の器官、加工品や標本)は許可がなければ譲渡譲受は禁止だと書いてあることを発見しました。法の目的を読めば、この法律は野生種の生命の保全であるように取れますから、12条、13条はちょっとおかしいのではないかと私は思いますが、はっきり条文に書いてある限りは少なくとも、対価を伴う標本の譲渡譲受を自由に認めることはできないだろうなあと思うに至りました。そう言うことを分かっていて、苦労している環境省の役人の方々に一知半解な法理解のもとに無理筋を頼んで悪かったなあと思うに至りました。
 そこで、矢後さんを通じて、「以前無理なことをお願いしてご迷惑をおかけしたが、よく分かったので、現在検討中の案でいいから、早く実施してほしい。そうしたら、今まさに亡くなりかけている昆虫老年の標本だけは適当な若手に承継してもらって守ることが出来るから。」と環境省に伝えてほしいと言っておきました。
 その後環境省の動きを注視していましたが、色々な政局などがあり、なかなか進んでいないような状況であります。国会の議員さんや環境大臣をはじめ環境省当局の皆さんには、以上のように、大いに努力をして下さっているのに、その後、それこそ政局などでお忙しいであろうなどと勝手に考えて、お礼にも行っていませんでした。そこで、この12月12日に、それぞれお忙しい方々のお時間を頂戴して、お礼に行ってまいりました。矢後さんにも一緒に行っていただきました。環境省の役人の方々には過去に私の法律に関する理解不足で、間違った要求を申し上げて申し訳なかったとお詫びもしてきました。そのうえで、現行法を前提にする限り、環境省がお考えのような、言わば標本の「一般承継」が出来る限度であろうから、その検討と実施を急いでもらいたいとお願いをしてまいりました。さらに、そのうえで、法律の改正の機会があれば、希少種指定をした種の中でも、ある種の昆虫など規制開始前に適法に採集されたたくさんの標本が多くの私人の所有するところとなっているような種については、何らかの方法で法規制開始以前の採集品であることを認証した上でその認証を受けた標本は自由な流通、譲渡譲受を認めるような法改正を是非お願いしたいと要望してまいりました。
 これに対し、議員の方々や役人の皆さんは、大変特殊な専門的なケースであるにもかかわらず真剣に耳を傾けて下さって、運用の改正を急ぐことと将来の法改正の検討を前向きにお答えいただきました。感謝を申し上げるとともに、今後の政府のご努力に期待したいと思います。
 以下は、この要望活動に際して私が急遽作ってご提出してきた資料です。文責も私ですから、そのまま以下に掲げておきます。

資料
絶滅の恐れのある野生動植物の種の保存に関する法律のもとでの蝶等の昆虫の扱いについて
2025年12月12日
仁坂吉伸(前和歌山県知事)

1.法律の規定
法律の目的:「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより、生物の多様性を確保するとともに、良好な自然環境を保全し、もって現在および将来の国民の健康で文化的な生活の確保にきよすることを目的とする」とあるので、野生生物が絶滅しないように守ることが目的のよう。

個体等の定義:第7条では希少野生動植物種の個体若しくはその器官又はこれらの加工品を「個体等」と総称し。

個体等の譲渡し等の禁止:生きている個体の捕獲等の禁止と並んで、第12条で希少野生動植物種の個体等は譲り渡し等が禁止され、第13条の環境大臣の許可を受けた場合のみ例外的に許されることになるが、その目的は学術研究又は繁殖の目的その他環境省令で定める目的に限られる。

2.実態と法律の規制
ある種の動物等:そもそも数が少なく、標本であっても希少(蝶その他の昆虫でもこの種の種もある)

多くの蝶等の昆虫:環境の変化、過去の乱獲等の理由で、今は希少でも、過去はたくさんの個体が産したため、過去の採集品が数多くの愛好家の手元に膨大に存在するものが多い。

希少野生動植物種に指定されると、その標本も規制されるので、多くの個人などが保有している過去の採集品の扱いが問題となる。
昆虫愛好家がだんだんと高齢化し、死去した場合など、その標本は採集が禁止される前に適法に入手されたものであっても、譲渡はできず、唯一譲り渡し先として許されている博物館、学術機関などは保管スペースの問題でこれ以上譲受できる余地がない場合が多い。そうすると、今となっては希少な標本が捨てられ、失われてしまう可能性が高い。

また、現行法の条文及び運用によれば、種が同一であれば、外国で採取された標本も規制の対象にされるように思われる。しかし、法の目的はあくまで日本における希少野生動植物の保護であり、外国の野生動植物種の保護ではないうえに、日本ではもともとの環境の違い又は最近のその変化その他の事情により、希少であったり、最近希少になったりした種であっても、外国には普通に生息していて保護の必要もないものが多く存在する。そのようなものまで、同一種であるからと言って規制するのは、管轄権の問題としても、必要性の問題としても不合理。

3.ワシントン条約によるこの種標本(個体等)の取り扱い
条約の目的は希少動植物種の保存を図ることなので、我が国の条約適用前に我が国に既に存在していた標本や象牙などの器官や工芸品は条約の規定を免れるように事前に登録ができる制度を用意した経緯。

4.個体等の譲渡譲受を規制する法的意味付け
法目的からは、野生動植物種の個体等の譲渡譲受規制はいささか無理があるのでは。少なくとも、エレガントな法律構成ではないのでは。

必要性から考えると、標本が無規制になると、今違法採取をしたにもかかわらず、昔採取した個体だと言って違法行為をする者を野放しにしかねない懸念。脱法行為の事前防止の意味。

一方、標本を規制すると、標本市場で需要に対して供給が少なくなるので、標本価値が高まってしまい、標本を手に入れたい者による違法採取のインセンティブが大きくなるおそれ。そうすると、かえって、希少種の保護に逆効果。

5.差し迫った問題
昆虫の愛好家は高齢者が多く、その標本の適正な承継方法を考えないと、今は希少になってしまった種の貴重な標本が失われてしまう

6.環境省による法運用の改善の工夫
前国会における質疑を経て、現在環境省で、現行法律の運用で、上記問題の解決を図ろうとする検討がなされていると仄聞するが、これは高く評価すべき。

その内容としては、規制されている標本を現に所有している者から別の者にまとめて譲ることを、適当な学術団体が当該別の者が標本の保管管理に責任を持てる者であると認めた場合のみ、許可するという内容であると仄聞。

この措置が実行されれば、高齢化した愛好家が持っている標本をより若い能力のある愛好家に承継してもらうことが可能になり、その適用を受けた標本は滅失を免れる。承継を受けた愛好家が高齢化したらどうするのかという問題はあるものの、少なくとも、今は当該承継にかかる標本は滅失を免れるので、言わば「時効中断」の意義。
したがって、一日も早くこのような法運営の改善を図ることが望まれる。

一方、種によっては、今の世に存する標本は極めて多数に上るため、もっと自由に譲渡譲受を認めても、現在の希少種の保護はもちろん、当該種の学術研究の目的からもまったく支障はないものも多く存在している。上記運用による改善は、いわば標本の「一般承継」であり、種によっては標本の「部分承継」である無償、有償を問わない譲渡譲受を認めても悪影響は生じないものもあるのは事実。もちろん、希少種の中でも、生きた個体はもちろん標本ですら既に希少である種は自由な譲渡譲受は認めるべきではないし、また、今は沢山の標本が存在しても長い年月の中で現存の標本が失われて行って希少になった場合には、その時点でその種の自由な譲渡譲受を禁止することは必要になるものと思われる。

7.感謝と今後の法改正の検討のお願い
現在行われていると仄聞する法の運用面での改善の検討には深く敬意、感謝。この上は一刻も早く成案を得て実行を図ってもらいたい。

一方、法律の現行条文(第12条、第13条など)を前提とする限り、過去に多数採取されて世に標本がふんだんに存在している種についても、おそらく、完全に自由な標本の譲渡譲受は認めるのがむつかしいのではないか。(ワシントン条約の場合のような運用はむつかしい。)したがって、種ごとの実態に合わせて、最も適切な法運営ができるように、法律の改正も早急にご検討いただきたい。それは、おそらく、現行法上いささか疑義がある目的規定と取締規定との調整も図る良い機会となるのではないか。